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飯田市立飯田東中学校

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飯田東中学校

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2009 年 6 月 30 日 のアーカイブ

1974年10月17日 ―校長講話より―

e8ac9be8a9b1e69c80e5889d 昭和49(1974)年10月17日。この日は、飯田東中学校の校史において、特別な意味を持ちます。それは、本校が放火による火災で、校舎の多くを焼失した日だから、です。しかもその放火が在校生によってなされたということも、この日を本校にとって特別な日たらしめている要因だろうと思います。

 

 

ca3a094329日(月)の校長講話では、この不幸な火災という出来事から、「困難や苦しみ、悲しみをの経験を分かち合い、不屈の精神で復興に勤しんだ先輩たちの姿」に学ぼう、とのお話が、北澤校長先生からありました。

 昭和50年3月発行の『不死鳥の如く』(飯田東中学校学友会発行)5ページ「火災の概要」を抜粋すると…

 1 発生日時 昭和49年10月17日(水) 午前二時頃発火 午前3時1分鎮火

 2 発生場所及び焼失場所 第4校舎東側渡廊下から発火し、第4校舎、旧体育館、便所、作業室、粘土機械室、第3校舎東半分、石炭置場 等全焼

 3 火災の程度 ①焼失面積 約2700㎡ ②損害総額 約8000万円 ③焼失設備・施設関係 第3校舎東半分(3年1組 3年2組 3年3組) 第4校舎(3年4組 3年5組 3年6組) (後略) ④焼失物品関係 りんご並木資料 学友会資料 クラブ活動関係資料(優勝旗・優勝楯等)

 4 火災の原因 本校2学年男子生徒の放火 家よりポリタンクに灯油を運び、第4校舎渡廊下にまき、マッチにて点火。

e8ac9be8a9b1e794a8efbc92 淡々とした事実記述からは、逆に生々しいこの放火による火災という不幸な出来事の、本校にとっての重い意味がじわじわと伝わってきます。

 本校が火災後、どのようにして復興の足跡を記していったのかが、『不死鳥の如く』には、赤裸々につづられています。その中で、火災時に学友会長であった森山聡さんは、次のような言葉を残しています。

 「火災と言うことは、たいへん悲しい災害であったわけだが、裏を返せば、このような大きな障害に突き当たって、それを乗り越えて更に飛躍していくということに関して、私たちは、東中の本当の力強さ、あるいは東中が多くの人々から見守られているということを、知ることができたと考えることができないだろうか。

 東中精神とは、いかなることがあっても、揺るぐことのない不屈の精神だと思う。それを再確認できたことは、大きなプラスになる面があったはずである」

(『不死鳥の如く』2ページより抜粋)

e4b88de6adbbe9b3a5e381aee5a682e3818f 1947(昭和22)年4月の飯田大火後、街の復興のシンボルとして造られた「りんご並木」を育て守ってきた飯田東中学校が、学友の放火と言う深刻な原因から火災に見舞われ、「りんご並木」に関する資料をすべて失ってしまったという皮肉。歴史とは何と残酷なことをするものか…と嘆息せざるを得ないところもあります。しかし、学友会長の森山さんは、その悲しい出来事を「揺るぐことのない不屈の精神」である「東中精神」を「再確認できたことは、大きなプラスになる面があった」と語っています。ここに、飯田東中学校における古くて新しい「永久の宿題」たる、「伝統とは何ぞや」という問いかけへの答えの1つがあるように思われます。

 執筆子にとっては、学友会長だった森山さんの言葉の重みもさることながら、当時の学校長であった倉田利久先生の残された短歌に、背筋の伸びる思いがしました。

 「苦しみのなをこのうえにつもれかし かぎりある身のちからためさん

  昭和49年11月17日 古歌を思いて  倉田利久」

 「このような覚悟が今の自分にあるのか?」と問われると、即答できない自分がいます。火災から35年。現在の東中に「不屈の精神」たる「東中精神」は、いかなる形と心となって存在しているのでしょうか。考えたい課題であると思います。

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