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飯田市立飯田東中学校

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飯田東中学校

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2009 年 6 月 23 日 のアーカイブ

「歌う」とは「訴う」こと ―全校合唱「大地讃頌」の練習に思う―

dsc00384 23日(火)の5時間目、全校音楽練習がありました。学芸会の全校合唱で歌う「大地讃頌」のパート練習でした。生徒の皆さん、ここ最近の暑さに加えて、テスト最中ということもあって、合唱をするコンディションとしては、身体的・精神的に今一歩という雰囲気があったように思われました。

 さて、この「大地讃頌」。作曲されたのは、今から47年前の昭和37年。作詞は大木惇夫さん、作曲は佐藤眞さん。混声合唱のためのカンタータ『土の歌』の第7楽章(最終楽章)が、この「大地讃頌」です。「大地讃頌」と言えば、執筆子も中学生の頃、全校合唱か学年合唱の時に歌いました。その時に覚えたバスパートは、今、生徒の皆さんと歌う時にも、健在です。きっと、保護者の皆さんの中にも、「あ、『大地讃頌』なら、私も中学の時に歌った。懐かしいなあ」と思われる方も多いかも知れません。

dsc00385 ちなみに楽曲の構成です。第1楽章は「農夫と土」、第2楽章は「祖国の土」、第3楽章は「死の灰」、第4楽章は「もぐらもち」、第5楽章は「天地の怒り」、第6楽章が「地上の祈り」、そして第7楽章が「大地讃頌」、となっています。

 作詞者の大木惇夫さん(1895~1977)は、広島出身の詩人。戦時中は「戦争詩」(戦争を賛美・鼓舞する内容の詩)を数多く作詞し、活躍したようです。そのため戦後は、そのレッテルから不遇な時代を送ったようです。ただ、戦後の作品の中には、反戦・非戦を訴える内容のものも多く、『土の歌』もその作品の1つに数えられるものと思われます。広島の平和公園にも、大木さんの広島原爆の犠牲者に捧げた鎮魂詩を刻んだ記念碑があるそうです(「鎮魂歌・御霊よ地下に哭くなかれ」)。作曲者の佐藤眞さん(1938~)は、日本を代表する作曲家のひとり。驚くことに、「大地讃頌」を含む『土の歌』が、作曲家としてのデビュー作。若干24歳の時の作品です。才能とは、年齢にあらずを体現するような事実です。

日本合唱曲全集「土の歌」佐藤眞作品集 「土」とはいったい、私たちにとってどのような存在でしょうか。第7楽章「大地讃頌」の冒頭では、「母なる大地」と歌っています。第1楽章では、「人みなのいのちの糧(かて)を創り出す土」とも歌っています。大木さんがこの『土の歌』という連作詩に込めたねがい、あるいは「土」というものへの思いは、今となっては推し量ることしかできません。ただ、キーワードとなる言葉を詩の中から探すと…「感謝」という言葉になるのかも知れません。

 「国破れて山河あり」とは、杜甫の「春望」の一節ですが、大木さんの胸中にもこの思いがあったのかもしれません。大きな犠牲を払った太平洋戦争が終わり、確かに残ったもの。それは、「土」だった。その「土」がある限り、いのちあるものは生きることができ、そして平和を再び築くことができる、生きることの根源にある「土」に、心から感謝と讃頌の念を持たざるを得ない…。そんな強いねがいが、「地の上に花さく限り よろこんで日ごと営み 悲しみも耐えて生きよう」(第6楽章「地上の祈り」の一節)という言葉に凝縮されているように思います。

 「りんご並木」を支える活動の中で、「土」との関わりをたくさん持つことができる東中生の皆さんには、「大地讃頌」を歌うことを通して、詩人・大木惇夫のねがいとそれに応えて不朽のメロディーをつけた作曲者・佐藤眞の「訴え」を受けて、心の底から「訴う」ような「歌」を実現してほしいと思います。何せ、「歌う」は「訴う」が語源だそうですから。 (さらに…)

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期末テスト1日目終わる ―学びて時に之れを習う―

dsc00377 23日(火)は、1学期期末テスト1日目でした。1年生にとっては、中学校入学後、初めて挑む定期テスト。2年生にとっても、「先輩」として取り組む初めてのテスト。3年生にとっては、勝負の夏休み前、最後のテストでした。それぞれの学年の皆さんにとって、大変に重い意味を持った定期テストでした(…実際に生徒の皆さんにその自覚があったのか否かは、テストの結果を見ないとわかりませんが…)。

 『論語』の冒頭、かの孔子の以下の言葉が出てきます。

 学びて時に之れを習う、亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや。

 朋遠方より来るあり、亦た楽しからずや。

 人知らずして愠(いきどお)らず、亦君子ならずや。

 (一度学べば、それでわかったような気がする。しかし、実際には、よくわかっていないものである。ところが、学んだことを折りにふれて復習・練習してみると、真の意味がわかってくる。体得するわけである。その体得のよろこびこそ、学ぶことの、まことのよろこびなのだ。

 遠く離れたところに住んでいる友が、思いもかけずたずねて来てくれる。こんなうれしい、楽しいことが、ほかにあろうか。

 自分を理解してくれない、あるいは、実力を認めてくれないということがある。それは、人生行路においてありがちなことだ。そういうばあいにも、心にいきどおりをいだかず、平静おだやかに、みずから信じる生き方ができる人―そういう人こそ、すぐれた人物と言えるのではないか。 諸橋轍次『中国古典名言事典』、1979年、講談社 より)

dsc00381 まさに、毎回のテストを、「学びて時に之れを習う」ことの真の意味が理解できる、定期テストにしてほしいと思います。テストの「その時」に、「できた・できない」という刹那的な判断基準に惑わされて一喜一憂するのではなく、テストの「その時までに」、自分は「学びて時に之れを習う」をどれほどできたのか?ということを問える、東中生であってほしいと思います。

 明日も期末テストは続きます。生徒の皆さんの「ここまで」に積み重ねてきた「学びて時に之れを習う」を、実感できる答案を、先生方は心から待っています。

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